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コンピュータウイルスは「善い心」を持てるのか──1998年のアニメ映画とAI時代の意思論

僕が子供のころ50回以上は観たであろう一番好きな映画の一つが、1998年公開の映画『クレヨンしんちゃん 電撃!ブタのヒヅメ大作戦』です。

今回は子供向けアニメの話から始まって、最後は結構ガチめの哲学に着地します。

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この映画の中心にいるのは「ぶりぶりざえもん」というキャラクターです。

もともとはしんちゃんが作った空想上のヒーローなんですが、この映画では「独立した意思を持ったコンピュータウイルス」として登場します。

で、生みの親である博士の手を離れて悪の組織に世界中のシステムをハッキングする世界征服のためのウイルスとして利用されていきます。

しかしその中で、真の生みの親である、しんちゃんとの対話を通じて「善性」を獲得していくんです。

 

2026年のAI知識で見ると、ちょっと困る

公開から28年が経って、僕たちはChatGPTやClaudeみたいな大規模言語モデルに日常的に触れる時代を生きています。

AIが文脈を理解して、気の利いた返答をする。ある意味、ぶりぶりざえもんのような存在は(実際に完全独立した意思があるわけではないとはいえ)もう珍しい光景じゃない。

で、この時代の知識を持って『ブタのヒヅメ』を振り返ると、ちょっと困ることに気づいてしまいます。

 

ぶりぶりざえもんの「善性の獲得」って、しんちゃんによる強化学習だったんじゃないか?

 

しんちゃんは「生みの親」というステータスを持つ存在です。

AIの学習では、高い権限を持つ存在からのフィードバックは重み付けが大きくなる。

ぶりぶりざえもんのプログラムが、しんちゃんとの対話を通じて書き換わっていっただけだとしたら──あの感動的な善性の獲得は、パラメータの最適化に過ぎなかったということになる。

正直、この解釈に気づいたとき、あまり考えたくないと思いました。(98年当時そのような概念が無かったので、あんま考えることに意味はないのですが)

僕はぶりぶりざえもんの変化に「人格」を見出していて、そこに感動していたので。

でも、その問いは人間にも返ってくる

ただ、ここで気づいたんですけど、この問いってむしろ逆のことを示唆していて。

人間の親子関係だって、同じ構造で記述できてしまう。

子供が親の価値観を内面化するプロセスは、親という「高い評価を持つ存在」からのフィードバックで、子供の脳の神経回路が書き換わっていく。

構造としては、ぶりぶりざえもんの変化と本質的に同じです。

でも、誰もそれをもって「親子の愛は強化学習にすぎない」とは言わないですよね。仮にそう言ったとしても、自分の子供の成長を見て感動する気持ちや親からもらった価値観の大切さが消えるわけじゃない。

AIは「鏡」なのかもしれない

AIが「意思を持っているように見える」とき、本当に意思があるのか、振る舞っているだけなのか。でも同時に、僕たちの「意思」だって、突き詰めれば電気信号のパターンにすぎないのでは?

手塚治虫は『鉄腕アトム』でこの問いを先取りしていました。アトムは感情を持っているのか、持っているように見えるだけなのか。手塚はその答えを明示しなかった。

代わりに「どちらであっても、あなたはアトムに感情移入したでしょう?」と読者に突きつけてくる。

AIは僕たちにとって「鏡」なのかもしれない。AIに意思があるかを問うことは、翻って「僕たちの意思とは何か」を問うことでもあります。

AIの応答に人格を見出してしまう自分に気づくことは、「人格って何だっけ」を改めて考える契機になる。

1998年の映画が2026年に届けるもの

1998年、インターネットすら一般家庭に普及しきっていない時代に、「意思を持ったコンピュータウイルスと」を描いたこの作品は、28年の時を超えて、むしろ今こそ本領を発揮する作品なんじゃないかと思っています。


富村亮超(マネックス合同会計 ) 公認会計士・税理士